グレッグ・イーガンの「ディアスポラ」は30世紀の宇宙を舞台にしており、そこでは人類は3つのグループに分岐している。
また、それぞれのグループのなかにも派閥のようなものがある。
たとえば、肉体人の中にはさまざまな遺伝子改変[3]を試みて環境に適応しようとする者がいれば、「不変主義者」とよばれる遺伝子改変を拒否する人々もいる。
一方、ポリスは複数存在して[4]それぞれに個性をもっている。《コニシ》ポリスの市民は物理的現実への関心がうすい傾向にあり、《カーター -
ツィマーマン》は物理的な宇宙の探究に興味をもっている[5]。《アシュトン-ラバル》は美学的な傾向があって、観境
と呼ばれるポリス内の仮想空間の自由度を最大限に活用して、ビジュアルアートや奇妙な人造生物の創造にいそしんでいる。
多くのポリス市民は、価値ソフト というソフトウェアで自身の精神を調整している。それは「ひとそろいの価値観や美学を提供する」もので、たとえば作中では、主人公ヤチマがイノシロウという友人から異質な価値ソフトの使用をすすめられるシーンがある。
「"死"の評価が十倍上昇する? 勘弁してください」
「それは、最初の評価が低すぎただけのことだ」ディアスポラ, p. 75
価値ソフトはポリス市民が精神の統一を保つために有用だが、イノシロウは価値ソフトの利用によって道を踏みはずしてしまう。
この(いくぶん戯画化された)仏教思想のような価値ソフトを実行することで、イノシロウは世界にたいする努力を放棄するようになった[6]。「なにがあったんです? 自分になにをしたんです?」
イノシロウは聖人のように微笑すると、両手をさしだした。それぞれの手のひらの中央に睡蓮の花が咲き、どちらもまったく同じリファレンス・タグを放った。ヤチマはためらってから、そのにおいについていった。
それは《アシュトン-ラバル》のライブラリに埋もれていた古い価値ソフトで、肉体人を悩ませた古代のミーム複製子 から、九世紀前にコピーされたものだった。 それが押しつけてくるのは、自己の本質と努力の無益さに関する、いわば気密封印された信念ひとそろいだ……核となる信念の弱点を浮き彫りにしてしまうあらゆるモードの論証の、徹底否認こみで。ディアスポラ, pp. 202-203
標準的なツールによる分析は、その価値ソフトが例外なく自己確証的であることを裏づけていた。ひとたびそれを走らせた人は、心変わりは不可能になる。それを走らせてしまったら、もう逃れられない。
ディアスポラ, p. 203
ここでいう自己確証的とは、おそらく、価値ソフトがそれ自身の正しさを保証するようにプログラムされているので、気まぐれによる心変わりや、他者による修正のこころみが不可能だということだろう。
自分の正しさを自分で確かめるのは、端的にいえば狂気の営みだ。
*****
この自己確証的な価値ソフトの話を読んで、はじめに連想したのが映画「メメント」だった。
10分しか記憶がもたない主人公・レナードが妻を殺した犯人を追うサスペンス映画で、主人公は重要な情報をタトゥーとして身体に彫りこんでいる。目覚めて記憶を失っていても、それを確認することで、自分がなにをすべきかを知ることができるのだ。タトゥー以外にも、ポラロイド写真に書きそえられたメモが同様に重要な役割をはたす。
しかしこの映画をよく見ると、主人公はタトゥーや写真のメモでみずからを操作しているのではないかと推測されるようになる。そこに事実ではない情報を書いておくことで、未来の(記憶を失った)自分の行動を操作できてしまい、しかも未来時点ではその真偽がうたがわれることはない。
そこに書かれた情報がただしいというのが、彼の人生の連続性のよりどころだからだ。
*****
彼ら(イノシロウとレナード)に過ちがあったとするなら、それは、価値観や記憶の操作をつうじて、自己の根拠や連続性を手放したことだと思う。その切断が狂気へとつながる。
グレッグ・イーガン著 山岸真訳「ディアスポラ」、ハヤカワ文庫